「藤原秀郷」物語
個々に存在する藤原秀郷の
伝記や記述を物語的にまとめました。
【物語前書き】
夜がまだ漆黒の闇を保っていた中世平安の朱雀天皇の御代。権勢を誇った名門藤原氏の一族に、下野国を治めていた掾(※1)藤原村雄の惣領(跡取り)で藤原秀郷という武将がいました。秀郷は、父から先祖藤原鎌足より相伝の黄金づくりの太刀を与えられて以来、数々の手柄をたて多く恩賞を賜りました。
【注釈】(※1)
掾:じょう 日本の律令 (7世紀から10世紀にかけての政治体制)下において、国司の部下の地位。
第一章【大ムカデ退治の話】
ある時、近江国(現在の滋賀県)の勢田の橋(別名:瀬田の唐橋)に大蛇が横たわって人々の通行を妨げることがありました。しかし、そこを通りかかった秀郷は、臆することなく大蛇を踏みつけて平然と渡って行きました。その夜、美しい娘が秀郷を訪ねてきました。娘は琵琶湖に住む龍神一族の者で、昼間秀郷が踏みつけた大蛇はこの娘が姿を変えたものだったのです。大蛇に相対するような勇猛な者を探していた娘は、龍神一族が三上山(滋賀県野洲市三上にある山)の大ムカデに苦しめられていると訴え、秀郷の勇猛さを見込んで大ムカデ退治を懇願しました。秀郷はこれを引き受け、先祖より伝来の太刀と弓に矢を持って三上山に向かうと、山を七巻半する大ムカデが現れました。秀郷は得意の矢を射たが、大ムカデにはなかなか通じません。最後の一本の矢になった時、唾をつけ、八幡神(古くより信仰される武運の神)に祈念して矢を射ると、ようやく射止めることができました。翌朝再び娘が現れ、大ムカデ退治の礼として、巻絹、首を結んだ俵、赤銅の鍋を秀郷に贈りました。俵は米を取り出しても尽きることがない不思議なもので、このことから秀郷は「俵藤太(田原藤太)、たわらのとうた」(藤太とは藤原の長男のこと)と呼ばれるようになりました。また、湖水の主の龍王は「御身の子孫のために、必ず恩を謝すべし」といって、黄金づくりの鎧と太刀を与え、「これで朝敵を滅ぼして将軍に任ずるように」といい、さらに、「日本国の宝になし給え」と釣鐘を与えた。秀郷は、鎧と剣は武士の重宝として子孫に伝え、釣鐘は三井寺(滋賀県大津市にある天台寺門宗の総本山)に寄進することにし、壮大な鐘供養(新たに梵鐘を鋳造した際に行う供養)がとり行われました。
▲江戸時代:俵藤太物語絵巻 大百足退治の図
第二章【平将門の乱の平定】
下総国(現在の千葉県北部と茨城県西部に相当する地域)の平将門が反逆を起こし、平新皇を称して日本国の主となろうとしました。秀郷は、将門が大剛の勇士で猛勢の軍を率いているので、同心して日本国を半分得ようと策略し、将門と対面しましたが、将門が軽率な人物であることを見抜き落胆しました。秀郷は、すぐに京に行き天皇より将門追討の宣旨を受け、三井寺の弥勒菩薩と新羅大明神に祈願して再び東国(現在の関東地方)に下りました。秀郷は平貞盛軍と合流して将門と戦いますが、あまりにも将門が超人的であったため、治国の宇都宮大明神(二荒山神社)に祈願し霊剣を賜り、それを持って戦に臨みました。そして、将門の姿は七体に見えていても本体にしか影がないこと、こめかみが急所であることを見抜き、得意の弓矢でついに将門を討ち果たすことができました。将門の首を持って京に戻った秀郷は、恩賞として従四位下(律令制下の役職と立場の総称)に叙されて武蔵・下野両国を賜り国司(※2)となり、京より東国へ下りました。
【余談】日本の歴史文学の中では最長の作品とされる『太平記』にも秀郷と将門の話しが記されています。京で晒首にされた将門。三月まで色不変、眼も塞がず、常に牙を噛みて、「斬られし我が五体いづれの所にかあるらん。ここに来たれ。首継いで今一軍ひと戦せん」と夜な夜な叫んでいた将門の首。ある時、首(将門)の前で、通すがりの歌人が「将門は こめかみよりぞ斬られける 俵藤太の謀にて」と、こめかみ(米かみ)と俵をかけて詠んだ。するとこの首は「かんら!から!から!」と笑い、たちまちの内に眼は塞がれ、その屍は遂に枯れていった。
【注釈】(※2)
国司:こくし(くにのつかさ、くにのみこともち)国の中央(朝廷)から派遣される官吏(現在の知事位の地位)。
地方の行政単位の国を支配し、政治、司法、軍事の全てを司り、絶大な権限を持つ。平安から鎌倉初期にかけては、武家政権から任命される守護との二重支配になっていた。
▲月岡芳年筆:田原藤太秀郷
【人物紹介】
平将門:たいらのまさかど
[生]不明[没]天慶3年西暦940年(2月14日とも3月25日とも)平安時代中期の武将。下総国佐倉が領地。桓武天皇五世の曾孫。平良将の子。前常陸大掾源護と争い、これに味方した叔父国香を殺し、国香の子貞盛に攻められたが、これを打ち破った。のち常陸、下野、上野の国府を攻略して「新皇」と号し、下総に王城を営む。朝廷では、征東大将軍藤原忠文に討伐させたが、その軍の到着以前に、下野押領使藤原秀郷の助けを得た貞盛によって討たれた。死後、その霊は神田明神の将門社 (東京都千代田区) に祀られた。
平貞盛:たいらのさだもり
[生]不明[没]西暦989年11月16日といわれている平安時代中期の武将。平国香の子として生まれる。後に敵対する平将門は従弟にあたる。 父・国香は常陸に本拠を置き、常陸大掾・鎮守府将軍に任じられたが、承平元年(931年)以来の一族の争いに関与して、甥の将門に敗れて殺害された。京でこのことを知った貞盛は常陸に帰国。叔父良兼らと将門軍と戦うが、将門軍は精強であったため、この時はなすすべなく敗退した。そののち平将門の乱に際しては、母方の叔父藤原秀郷とともに挙兵、将門を討ち取ることに成功した。貞盛はこの功により従五位上となり、右馬助に叙任された。
第三章【百目鬼退治の物語】
秀郷は、下野国宇都宮の地に館を築き、ある日その近くで狩りを行いました。狩りの帰り道、田原街道大曽の里を通りかかると老人が現れ、「この北西の兎田という馬捨場に百の目を持つ鬼が現れる」ことを告げられました。秀郷が兎田に行って待っていると、丑三つ時(今の時刻の午前2時から2時30分頃)の頃、俄かに雲が巻き起こり、両手に百もの目を光らせ、全身に刃のような毛を持つ身の丈十尺の鬼が現れ、死んだ馬にむしゃぶりついたのです。秀郷が弓を引いて鬼の最も光る目を狙って矢を放つと、矢は鬼の急所を貫き、鬼はもんどりうって苦しみながら明神山(宇都宮二荒山神社)の麓まで逃げましたが、ここで倒れて動けなくなりました。鬼は体から炎を噴き、裂けた口から毒気を吐いて苦しんだため、秀郷にも手が付けられない状態となり、仕方なく秀郷はその日は一旦館に引き上げることにしました。翌朝、秀郷は鬼が倒れた場所に行きましたが、黒くこげた地面が残るばかりで鬼の姿は消えていました。
それから400年の時が経って、足利氏が室町幕府を立ち上げた時代、宇都宮の明神山(宇都宮二荒山神社)北側にある塙田村本願寺(※3)で、住職が怪我をするとか寺が燃えるといった事件が続きました。その中、智徳上人という徳深い僧が住職となる。すると、その住職の説教に必ず姿を見せる歳若い娘がいました。実はこの娘こそ、400年前にこの辺りで瀕死の重傷を負った鬼の仮の姿なのでした。鬼は、長岡の百穴に身を潜め傷付いた体が癒えるのを待ち、娘の姿に身を変えてはこの付近を訪れて、邪気を取り戻すために自分が流した大量の血を吸っていたのです。そして、本願寺の住職が邪魔であったため、襲ったり寺に火をつけたりして、追い出そうとしていたのです。智徳上人はそれを見破り、鬼は正体を現しました。鬼は智徳上人の度重なる説教に心を改め、二度と悪さをしないと誓いツノと爪を折り、それを上人に捧げて消えたのでした。これ以降、この周辺を百目鬼と呼ぶようになったというとこです。今も明神山の裏(現:塙田町)には「百目鬼通り」という名称が残っています。
【注釈】(※3)
本願寺:ほんがんじ かつて宇都宮市塙田町にあった時宗の寺院。
江戸末期の古地図には載っているが、現在は閉寺となっている。ご子孫の方が、「百目鬼物語」の伝承遺品であるツメを現在も保管されているとのこと。
▲図:鳥山石燕「画図百鬼夜行」安永5年
【人物紹介】
智徳上人:ちとくしょうにん 塙田村 本願寺の住職。「百目鬼物語」伝承に出ているが、智徳=智と徳のある人の総称でもあるので、僧の名ではないかもしれない。
【後年】
秀郷の子孫は、その後代々将軍職を賜り、長く東国を治めることとなりました。秀郷の子孫は大いに繁昌し、日本六十余州に弓矢をとって藤原と名乗る家に、おそらくは秀郷の後裔でないものはいないということです。下野国宇都宮を治め繁栄に導いた宇都宮氏の始祖藤原宗円は、秀郷と同系の藤原氏子孫にあたります。
【人物紹介】
藤原宗円:ふじわらそうえん。
[生]1033年長元6年(または1043年長久4年)[没]1111年(天永2年)平安時代、一条天皇の摂政となった藤原兼家の次男。下野国を地盤に活動し、宇都宮氏の始祖で初代当主となる。別称、宇都宮兼綱。早くから僧侶として活動していたらしいが、前九年の役の際の凶徒調伏などの功が認められ、下野国守護職や下野国一の宮別当職となる。仏法を背景に勢力を拡大し、下野国主に任じられ宇都宮城を築き、城主となる。宗円は宇都宮氏の祖先であるばかりでなく、八田・小田・氏家・塩谷・横田・上三川氏などの祖先であるともいわれる。
<出展・参考資料>
「御伽草子-俵藤太物語」大百足退治と平将門討伐
「宇都宮の民話」宇都宮教育委員会刊
「うつのみやの伝説」下野民話の会編
「うつのみやの民話」かまどの会編
その他各種出版物
【動画】藤原秀郷伝説 街歩き 配信開始!!
栃木の武将「藤原秀郷」をヒーローにする会のメンバーがナビゲーターとなり、宇都宮市内の史跡をめぐる「街歩き」の動画配信を開始しました!
公開中の第一弾は、宇都宮の中心地、二荒山神社をスタートし、百目鬼通りを通り、蒲生神社へ向かいます。動画を参考に、ぜひ街歩きに出てみましょう!!
・印刷工場みやもと カメラマン 岡田康男
▼動画は下記URL(YouTube)をクリックでご覧いただけます。
https://youtu.be/B9zCJCxsczg
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